七戸町立鷹山宇一記念美術館

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鷹山宇一について

プロフィール

鷹山宇一 写真 鷹山宇一[たかやま・ういち]
1908年〜1999年


©秋山庄太郎写真芸術館

1908年、青森県七戸町の地主の家に生まれる。七戸尋常高等小学校4年生の時、代用教員として赴任していた歌人・青山哀囚が受持教師となり文学的薫陶を受ける。大正の自由主義を謳歌した児童文学雑誌『赤い鳥』を子どもたちに回覧するなど、自由で創造的な教育を行った青山と過ごした1年が、少年・鷹山宇一に大きな影響を与え、画家を志ざす第一歩となった。旧制青森中学時代には、棟方志功ら青年画家たちで組織された「青光画社」に加わり、本格的に絵の制作を開始する。

1927年、旧制青森中学卒業と同時に念願の上京を果たす。川端画学校でデッサンを学び同年日本美術学校洋画科に編入する。鷹山が上京した当時の日本洋画界は、西洋の新しい文化が次々と移入され、まさに花園が一時に咲き誇るような最盛期にあった。そんな文化の中心地・東京での生活が鷹山宇一に与えた影響は計り知れない。様々な試行錯誤の中で、はじめフォーヴィスムを踏襲した油彩画を描くが、次第にシュルレアリスムに傾いていく。1930年、第17回二科展に初入選した2作品はともにシュルレアリスム風の木版画。以降も二科会へ出品を続けるとともに、前衛画家で組織された「新油絵」「絶対象派協会」「九室会」に参加、1939年には二科会を離れ福沢一郎らによる「美術文化協会」創立に加わる。1944年、海軍航空隊員として応召。終戦を迎え一時七戸町に戻るが、1945年、二科会再建に際し会員として復帰、再び上京する。

戦後は二科会を拠点に活動。制作活動の傍らその運営にも携わり、理事、名誉理事を歴任。1950年第35回二科展で会員努力賞を、1966年第51回二科展で青児賞、翌年第52回展では総理大臣賞を受賞。このほか、個展・グループ展等多数開催し精力的に制作活動を展開した。

自他共に認める鷹山の代表作は1950年第35回二科展に出品された『荒野の歌』(キャンバス・油彩、F80、神奈川県立近代美術館所蔵)である。

鷹山独特の深い緑を基調とした画面には、月夜の荒野を舞台にした物語が繰り広げられている。小高い丘の上から、大きな三日月を背にシルエットで浮かびあがる一頭の牛。ただじっと、見下ろす視線の先には、開墾のただ中なのであろうか、見事な切り株と、その上ではカマキリが蝶を追いかけ、そしてその根っ子に上半身を潜り込ませた裸の赤ちゃんが描かれている。月明かりと相俟って、まさに夢幻の世界が広がる。終戦後の混乱と新たな出発を期するこの時代に「荒野の歌」を描いた鷹山は、一体何を、暗示したのだろうか。

1965年、この作品を買い上げた神奈川県立近代美術館・館長(当時)で美術評論家の土方定一氏は、「現代日本の稀有な幻想画家」と、鷹山を称した。

「ぼくは、若いころはシュールの絵を描きました。シュールは夢幻的な具象ですよ。ぼくはこのところ、花と蝶をテーマにして描いているけれど、考えてみれば、ぼくの絵の系列はシュールでしょうね。最近になって、ぼくはしみじみそう思います」
※鎌原正巳「鷹山宇一の人と作品」(『季刊美術誌 求美 ’70涼風号』4号、1970年)

鷹山が自らの作品を語った一文である。

前衛画家として超現実主義的な作品を発表してきた鷹山が、幻想的な油彩画で知られる今日の作風となったその境界には、太平洋戦争が横たわっている。

戦後は専ら、野山の緑や海の青を彷彿させる色調の静謐な画面に、色とりどりの花や静物、蝶を配して、独自の幻想世界を創出した。しかし、ルーペで観察しながら細やかに描き込まれる蝶をはじめ、モチーフひとつひとつを見れば、それらは具象そのもので、それぞれがひとつの画面に絶妙に配置された瞬間、鷹山宇一の幻想世界となって表出し、甘美な空想や物語を見る者に伝えはじめる。そして、絵の具が乾くまで待ち、薄く塗り重ねてはまた待つ、この繰り返しにより丹念に作り上げられるマチエールは独特の透明感を生みだし、その幻想美を一層際だたせている。

見る者を夢幻の世界へと誘う鷹山の作品に、シュルレアリストの眼を見逃すことはできない。現代日本の稀有な幻想画家と称された鷹山宇一が表す「美」の、孤高を持した「形」が、ここにある。

※画像は、写真家 故秋山庄太郎氏の撮影によるものです。

秋山氏の詳しい情報はこちら 秋山庄太郎写真芸術館ホームページ

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